知ったかぶりのかっこよさ

父は報道関係のお仕事で、仕事も不規則、単身赴任していた時もあった。

父の単身赴任先に遊びに行った時も新聞の山に囲まれて如何にも仕事の部屋という感じがした。

カメラもたくさんあったし、暗室もあった。その中でかくれんぼをするのが楽しかった。


小学校の卒業文集では将来はカメラマンになりたいと書いたと思う。

カメラマンっていうのはその時にはあこがれの職業だったと思う。


いつしか時は過ぎ、大学時代になって環境問題に興味を持つ。
その思いは社会に向き、人に向いて行く。

結局環境問題も、社会問題も知らないと始まらないと思うようになる。


そんな考え方から情報に興味を持つ。
情報の最先端はITである。

その情報っていうのを早く、正確に届けるような仕組みに興味を持つ。

でも、同時にその仕組みに興味も持たせられているのではないかという風にも思うようになる。

時代の流れに完全に乗っていると思うようになってくる。

それは悪いことではないのかもしれない。


しかし、その流れが終わった時に(現在のITの技術の進歩は終わることはないのかもしれないが)途方に暮れるのではないかと思ってしまう。



原点に戻ってくる。あのころかっこいいと思っていたカメラマンに。





中学から高校の間に、カメラマンが嫌いになった瞬間があった。

過去にも書いたかもしれないがもう一回書く。

大きく分けて二つ。
・カメラマンは大切な瞬間を自分の肉眼ではなく、カメラのレンズを通してしか感じられない。(仕事の時以外は違う)
・時には迷惑を承知で行動しなければならない。

1つずつ書いて行く。

カメラマンは常に最高の瞬間を撮ってそれを写真化し、記事にして売る。
その行為はいいが、自分は最高の瞬間は肉眼で見てみたい。

たとえば、富士山の登頂に成功したとする。ついでにご来光にも会えたとする。
その時にカメラでご来光の最高の一瞬を見るのか。自分の肉眼で見るのかでは、印象が全く異なってくる。

今、書きながら思ったのは、撮った写真をあとでめでるという行為にあまり価値を見いだせていないのかもしれない。
所詮、写真は写真である。
写真の形でご来光を見たとしても、感動なんて実際に見ることの、何十分の一、何百分の一である。

要するに、自分の人生の中で最高の瞬間を肉眼で見たいのかもしれない。これでは仕事にならないのは承知している。

結局自分本位でしか語れていないが、もうしばらく語らせてもらう。


その次について語っていく。
親戚の結婚式で、誓いの言葉の神聖な段階においての話である。
父が報道魂を発揮したのか知らないが、新郎新婦の顔を撮ろうと神父さんの後ろに回ってカメラを構えたのである。

その時の会場の騒然とした雰囲気と自分の親という恥ずかしさがカメラを嫌いにしたのかもしれない。



そんな感じで自分のしたいことなんて見つけるのは難しいよねっていう話でした。

おんなじような内容なのに2回目に書く1回目よりうまく書けてるねっていう気づきも得た。


そしてタイトルに戻る。
知ったかぶり
というのは、父のことである。

情報を扱う仕事をしているからか。何でも知っている、早くに知っているということが我が家ではステータスである。

このステータス目当てに情報の収集合戦は激しい。
父は仕事場で
母はテレビで
自分はネットで

知った情報を教えて一番驚かせたら勝利である。

だから我が家では知ったかぶりはかっこいいのだ。